葬儀の風習


下記文章は、宗教に熱心で信心深い人を否定するものでは無く、単なる私の考え方を記したものであるため、信仰熱心な人の気分を悪くするかも知れないので、信仰熱心な人は以下の文章を読むのは止めることをお勧めする。

現代の地球のヒトは神様がヒトを作ったと考えているかどうかは不明だが
神様やお釈迦様を信じて生活をしている人が多そうだ。(たぶん)
本当は、ヒトが神様や仏様を創ったのだが、
それを言うと、
過去、太陽が地球を回っていると信じているヒトが多かったときのように
地球が太陽の周りをまわっていると言ったヒトが狂人扱いされ
迫害される扱いを受ける、。
そもそも、
釈迦の死(入滅)が紀元前383年であり、それから、どこかの
教祖らしい人の伝えで、仏教となり、
日本に仏教が伝わったのが538年、それまでは、ヒトが亡くなっても、葬儀で念仏等あげなかったし、通夜、告別式、初七日、四十九日等いろいろとイベントは無かった。
日本の仏教も幾人の伝承者により宗派が別れ、それぞれの宗派の人数を増やす工夫がされ、宗派によっては、通常の行いにかかわらず、ある言葉を唱えれば救われる等、都合の良い宗派が信者を増やし寺の数を増やした。あっという間に日本の寺院数は増え日本に広まった。最近は減ってきているがそれでも2025年ではコンビニエンスストア数より数が多い。

世界でメジャーなキリスト教にしたって、キリストが生まれる前はそんなもの無かった。(似たようなものはあったかも)
宗教とは、ヒトそのものが無力であるがうえに、ヒトを凌駕する力を持つ存在を仮定し信じることで、無力さをまぎわらそうとするために生まれたものである。
自分の力におよばないものに対し、神、仏といった概念を持ったほうが気持ちが休まるため、信仰という概念が生まれた。
また、宗教は使いようによっては、民衆を動かすツールとして都合が良いことから、政治にうまく利用されるし、税金等で優遇される。(時としては迫害を受ける場合もある)

ヒトには魂があり、亡くなったら、その魂が天国や地獄、極楽浄土に行くなどという考え方も信仰であり、時としてモラルの維持に使われるが残念ながらそのようなものは、現実には存在しない。
ヒトが亡くなったら、意識や感覚は消滅し、生まれる前の無の状態となるだけである。
今の日本では、誰かが亡くなると、通夜、告別式、初七日、四十九日等いろいろとイベントがあり、お坊さんや葬儀ビジネスの対応が必要になる。
生存者の時間とお金を浪費し、近親者に疲労と疲弊をもたらす慣習が当面続くことになる。
悲しみを紛らわせることは否定はしないが、概ね、無駄なことである。
ヒトは亡くなっても、天国や地獄、極楽浄土にはいかないし、葬儀のイベントをしようがしまいが、結果は変わら無い。
仏壇をつくろうが、お経を唱えようが、それは生存者の自己満足でしかない。
ただ、今の時代、お逮夜や戒名など無駄だと言うと、薄情だとか無信心だとか、罰当たりとか言われてしまうので、だまって葬儀ビジネスを傍観するしかない。
そうしないと、昔のコペルニクスやガリレオ・ガリレイみたいに迫害を受けることになる。
当時の天動説信仰のヒト達と同類をまともに相手にするのは、全くの無駄である。

そもそも、仏教やキリスト教が発生する前のヒト達は亡くなった際には、どこにいっているの?ヒトという生き物だけ(最近ではペットも昇格したらしいが)に魂があるという考え方は傲慢であり、おこがましい。

私は死んだら、生きている人の時間やお金をを葬儀のイベントに割いてもらう気持ちは、全く無いし、生きている人は、生きている時間を精一杯、生きている人のためだけに使って欲しいと望むだけである。
また、葬儀のイベントをなくすだけでも、地球環境にはやさしくなるだろう。
いつになれば、ヒトは宗教無しで正しく生きれる時代を迎えることができるだろうか?